事業承継から読み解くコスモスLAB.vol2:株式会社小出ロール鐵工所(前編)「事業承継はいただいた「舞台」。「舞台」があることに、まずは感謝。」

株式会社小出ロール鐵工所
代表取締役 小出明治氏
会社概要
会社名 株式会社小出ロール鐵工所
代表取締役 小出 明治
所在地 本社工場 千葉県習志野市東習志野6-21-8
本社 東京都墨田区吾妻橋3-5-12
創業日 1914年(大正3年)9月11日
設立日 1948年(昭和23年)11月17日
資本金 16,792千円
事業内容 製鉄用各種鍛鋼焼入ロール製作及び研削加エ
製紙用各種ロール製作及び研削加エ
ポンプ軸・タービン軸・印刷機械用各種ロール製作及び研削加工・ビニール・製粉用各種ロール研削加工
各種機械設備のメンテナンス及び出張工事
HP https://www.koideroll.co.jp/index.html

「『事業承継』というフィルターを通すと多くの学びや気づきがあり、ビジネスやマネジメントがもっとオモシロクなる」がコンセプトの新企画。ご好評につき、連載企画となりました。

事業後継者育成を目的とした「ちば興銀『コスモス経営塾』」を卒業し、実際に事業承継をされた方々にインタビューを行い、さまざまな分野で活躍される経営者の体験談や経営術を発信します。経営に興味のある方、事業承継を検討されている方に、ここでしか手に入らない生きた情報をお届けいたします。

今回のゲストは、1914年(大正3年)創業、千葉県習志野市で鉄鋼、非鉄金属、製紙、電機、産業機器などの工業用ロール・シャフトの製造およびメンテナンスを行う株式会社小出ロール鐵工所(以下、株式会社省略)の6代目、小出明治社長。幼少期より、2代目社長の祖父から経営者としての心構えを説かれてきたと言います。先代たちにより100年以上紡がれてきたバトンを、2006年に受け継ぎました。

事業承継はいただいた「舞台」。「舞台」があることに、まずは感謝。

小出ロール鐵工所は、鉄鋼業界や製紙業界の製造ラインに必要不可欠なロールや重電向けタービンシャフトの製造・修理を幅広く手掛ける、創業108年の老舗企業だ。関連会社に運輸会社を持ち、関東全域の運送網を自社でカバー。広島県福山市に営業所を構え、顧客は日本全国に及ぶ。

同社は、設備投資として過去最大の約4億6000万円をかけフラッグシップマシンの大型ロール研削盤をリプレイスし、2022年5月に本格稼働を開始した。社運を賭けたコロナ禍の決断に、迷いはなかったのだろうか。

「リプレイスは、いつかはやらないといけないと思っていました。2018年に大型主軸モーターが故障し1カ月間操業休止するというトラブルがあり、お客様に多大なご迷惑をお掛けしてしまったことで、実行を決意しました。コロナ禍で計画を続行することに迷いが無かったと言えば嘘になります。でも、ここで立ち止まったとして、稼働が1年遅れたら、コロナが終息した瞬間に競合他社に何年も先に行かれてしまう。ここを辛抱して、ここでふんばるのが僕らの生き方だと思っています。辛抱して、ふんばって、そうやって、100年続いてきたのでしょう。」

大型研削盤の特徴的な紫色のカラーは、お馴染みの大人気アニメがモチーフで、本物と同じカラーコードにしているという徹底ぶりだ。カラーは、10代の社員のアイデアがきっかけだったという。

「工作機械は一般的にベースカラーが決まっているんですよ。緑、黄色、青、目に優しい安全意識で緑とかね。でも、当社のシンボリックなフラッグシップマシンなので、それなりの意味合いを持った、目立つ色にしたいと思っていたんです。」

「立ち話の中で、10代の社員から『藤色はどうですか?』という意見が出て。『藤色=紫色』は古今東西問わずに格式の高い色ですよね。フラッグシップマシンは、当社設備の最上位ということで、『紫色にしようか!』となりました。そこから、何かに似ているという話になって(笑)。メーカー側の協力もあり、現在のカラーになりました。」

小出社長の名刺やスマホケースなど、身に付けるあらゆるものがフラッグシップマシンとリンクしており、当設備への並々ならぬ決意と情熱が伝わってくる。今回の投資により、メインクライアントである製鉄・製紙業界以外の新たな分野へチャレンジすることが可能となる。生産能力も飛躍的に上がるという。

「エネルギ―関連・金属箔製造等のミクロンオーダーの精度にも対応できるようになりました。また、従来機器よりも職人の最終修正・調整時間が削減されることと、変電設備など周辺設備の自動化により24時間稼働が可能になったことで、生産能力が向上しました。将来的には、従来の1.5倍にすることを目標にしています。」

「次の100年に向けてですね」と聞くと、「僕は生きていないですけど、夢を共有していくことで、グループ社員含めて目標が持てるし、働き甲斐があるでしょう。」と、開口一番従業員に対するメッセージが返ってきた。

一丁目一番地に「常に向上心を持ち自ら考える集団である」を置き、大多数の中堅中小企業が人材不足に悩む中、毎年新卒採用を続け、理念の実現のためにさまざまな取り組みを続けてきた同社。

「105人の社員全員の家族構成までほぼ把握」「100周年パーティーを期限ぎりぎりでキャンセル」「事業承継は嫌われることを恐れない」など、一見破天荒に聞こえる小出社長のエピソードも、その理念を紐解いていくと、まっすぐな筋道が見えてきた。

祖父からの期待。父からの「好きなことをやれ」。でも、いつかは継ぐんだろうなと思っていた。

-事業承継のキッカケを教えてください。

子どもの頃から祖父や父、叔父など、経営者を見て育ったので、「将来的に自分もそうなるんだろう」とは思っていました。父は事業継承について何も言わなかったですけどね。「好きなことをやれ」とだけ。

直系長男だったので、祖父からはずっと「お前は後を継ぐ」と言われ続けてきました。お年玉をもらう時も僕だけ正座で祖父の話を聞いていました。あとで知った話ですが、その分、僕だけお年玉の額が他の孫より多かったそうです(笑)。

明治という名前も祖父がつけてくれて、父が病気になった時は「作業場に明治と2人で住んであいつを仕込む」と言ったり…。僕への思い入れが強かったんだと思います。祖父は、戦前、戦時、戦後、震災を生き残って変化に対応してきたエンジニアなんです。僕にはない感覚を持っている人でした。怖い人でしたが、今も憧れています。

でも、自分の口から「承継したい」と伝えたのは、祖父ではなく父でした。大学生の時、スキーに夢中になっていて、大学へあまり行かずに年の半分は山にこもっていました。スキーを教え、バックカントリーのガイドをして、「このまま好きなことだけをやっていたいな」と思う気持ちもありました。でも、大学を卒業する時に父親に頭を下げて、「申し訳ないですが、同業他社で修行をさせてもらえませんか?」と頼みました。

父からすると自由に遊んでいた息子が急に頭を下げてきた訳ですから、始めは反発されました。でも、最終的には僕の姿勢を認めてくれて、「ライバルでもあるけど大阪にツテがあるから聞いてみる」と。

初めての取り組みだったのですが、先方も快諾してくれて、会社からの出向で修行に行きました。今ではお互いに後継者を育てる修行先として受け入れ合ったり、共同事業を行ったりと、良好な関係を築いています。

大阪での修行。人の2倍働けば、人の2倍技術が身に付くことを知った。

-大阪では何年間、どのような修行をされたのですか?

出向先では、お客様扱いではなく、きちんと修行をさせていただくために身元を伏せて働いていたんです。当時は昭和の最期、バブルの末期でしたから、朝から晩まで仕事をしていました。

僕より10歳近く年上の上司にいろんなことを仕込んでもらいました。上司は、朝一番に来て最後に帰る、誰よりも仕事をする人でした。

僕も毎日早起きして、現場で機械オペレーターをして、上司に「あほボケカス」と言われるのが常でした。大学スポーツ時代の合宿所と感覚が似ていましたが、関西弁がきつくて、わからなくて…。今では許されないことですが、スパナや工具が飛んでくる世界だったんです。技術と同時に、職人の考え方を知りました。

修行時代に一番学んだのは、人の倍やれば、半分の時間で仕事を覚えられるということ。大阪にいた3年間で、誰よりも働く上司から6、7年分の仕事を吸収しました。

もう少し学んでいたかったのですが、ちょうどバブルがはじけて、当社も厳しくなっているということで急いで会社に戻りました。

過去最高益からのバブル崩壊。日本全国への営業で、走行距離は1カ月で5000キロを超えた。

-会社に戻ってからはどのような仕事を?

当社はバブル崩壊の影響を受けるタイミングが少し遅れて、僕が戻った後に過去最高益から一気に売上が落ちました。

戻ってすぐは製造現場に入りましたが、仕事が一気になくなりましたから、営業で日本全国を回りました。地方の遠方も新規開拓して、お客様を広げました。未だに自慢できるのが、車で1カ月5000キロ走ったことです。今も、うちの営業職の中で抜かされていない記録ですよ(笑)。だから車はすぐ壊れたし、何回も事故を起こしました。

でも、次の経営者として会社に戻っていましたから、従業員の未来を背負っているという意識で、がむしゃらに仕事をしていました。当時、一緒に家に帰らない生活をしていた従業員は、今は幹部として会社を支えてくれています。仕事が無くて大変でしたが、たくさんの貴重な経験をしました。

会社の業績が安定してきてから、メインパートと言われる部門は一通り経験しました。職種としては工場長が一番長く、13年間勤めていましたね。

工場長13年。ほぼ全職種を網羅した上での社長就任でも、手放しで歓迎されることはない。

-では、事業承継については従業員の理解も深かったのですね。

理解され、認められるというのは、基本的に難しいですよ。中小企業は、仮に苗字が違っても誰が会社を継ぐのかを、みんな知っています。そんな中、後継者はどのような立ち居振る舞いをすればよいのか悩みますが、「ウェルカム!」「よく来た!」と受け入れられることはまず無いと思った方がいい。

仮に喜んでくれるとしたら、後継者の子どもの頃をよく知っていて、親のように思ってくれている人くらいではないでしょうか。自分が逆の立場だったとしても、海の物とも山の物ともつかぬ人に自分の将来は託せませんよね。

僕が戻ってきた時は、「自分は24時間365日監視体制で仕事をしている」という感覚でした。「3年間修行したから教えなくてもわかるだろう。」と思われ、誰も教えてくれなくて、自分で勉強するしかなかった。ここでも、人の2倍行動して学びました。使えない機械もありましたが、その代わりに知識でカバーして、どうしてもわからないことは人に聞いて、身に付けたものは誰にも負けないと思っていました。

自分に知識と技術がついてくると、従業員のダメなところがわかってきます。それを徹底的に「潰したろう!」という姿勢だったので、現場ではよくぶつかりましたね。でも、自分がやると決めていたので、そこは曲げなかった。ダメなものはダメと言い続けました。人になびいたりすることは一切ありませんでした。そうやってずっと進んできた20代、30代、40代。50代の今は、すっかり丸くなりましたが…(笑)。

今、社長になって、社員がついてきてくれているかは自分ではわかりませんし、思いません。僕が発信したことを社員達が考えて、ちゃんとやってくれる。それが、結果なんだと思います。

人は人のコトを気にするものです。僕も若い時そうでしたが、誰でも自分の評価を絶対に気にしてしまう。「嫌われたくないからこうする」「相手が求めていることをする」、それは結局、社員を増長させてしまい、自分の目線が違う方向に行ってしまうことにつながります。

マネジメントをする者として、「嫌われたくない」という気持ちは排除しないといけないです。でも、人は面白いことに素直でいれば応えてくれるんです。松下幸之助さんがおっしゃっているように、素直に感激して、素直に怒って、素直に謝ることです。若い時は圧が強すぎてうまく返ってこないこともありましたが、段々とそれが熟練の技になってきました(笑)。

経営者は、無理やりでも自分の居場所を作った方がいい。次第に、自分の描く経営者像ができていく。

-事業承継のプレッシャーはありましたか?

この会社に入ると決めた時に、「入ったからには、骨を埋めて社員とその家族、仕入れ先、協力会社も背負っている」と覚悟しました。若い時は「この小さい体でどうやって背負うんだ」と思っていましたが、「背負う」の意味が段々わかってきます。そうすると、自分なりのやり方ができてきますよ。

大阪に出向していた時に2人、戻ってきて父と叔父含め3人、これまで5人の社長に仕えてきたのですが、千差万別でした。正直「経営者としてダメだな~」と思うこともたくさんありましたが、反面教師として非常によい経験をさせていただきました。

父にもよい部分や、経営者として絶対に勝てない部分もありました。でもダメなところもあるんです。父は経営者としては優しすぎたのかな。「もっとガッツリいけよー」と、当時の僕はヤキモキしていたのですが、経営者になってしばらく経った今は、自分には持っていないところだなと感じられるようになりました。以前はダメとしか思えなかったのに。

今思えば、後を継ぐというプレッシャーで経営者としてのダメなところばかり目についていたのかもしれません。こればかりは、自分が経営者になって、自信をつけていくしかないと思いますよ。あとは、同じ話を共有できる仲間がどれだけいるかです。最低一人でもよいので、ちゃんと腹を割って、自分の会社のことを数字から何まで全て話せる経営者仲間を作る。

僕は有難いことに、18年前にちば興銀さんのコスモス経営塾に入ってから、今でも飲んだり食べたり、夫婦同士、家族ぐるみで付き合っている社長仲間がいます。この会のよいところは、自分で居場所をつくれるところです。

始めは付き合いが面倒くさいし嫌なんですよ(笑)。若いという理由で父親に「銀行の付き合いだから入れ」って言われて渋々入るんです。僕もそうでした。でも、行ってみると本当に面白い。若い人には、「自分の居場所を無理してでもつくれ」と言いたいです。通ううちに「嫌だな」「行きたくない」って同じように思ってる人が来て「あなたも?やっぱり?」と仲良くなって、コーヒーを飲みながら「今度飲みながら話しませんか?」と打ち解けていくんです。

後継者候補として生まれた人は、いろいろ背負わされて、悩むし嫌なことも多いけど、有難いと思った方がいいですよ。こんな舞台をいただけるんですから。どんな大根役者でも稽古すれば、少しはご贔屓さんがついてお金をもらえるし、お客様も喜んでくれるんです。でも、その舞台に立てない人もたくさんいます。僕は、この環境をチャンスだと思います。

DIRECTOR:YUSUKE TOSHI(日本企画)
WRITER:CHIAKI NAKAMURA(株式会社KiU)
PHOTO:YASUO HONMA(本間組)