事業承継から読み解くコスモスLAB.vol4:文平産業株式会社(前編)
創業家から熱望された承継。白羽の矢は取引先のホープに立った。

文平産業株式会社
代表取締役 佐藤 直樹 氏
会社概要
会社名 文平産業株式会社
代表取締役 佐藤 直樹
佐藤 紗梨
所在地 千葉県白井市復1454-12
設立日 1954年(昭和29年)3月10日
資本金 10,000千円
事業内容 農機具販売・メンテンナンス
HP http://bunpei.lolipop.jp/concrete5/

「『事業承継』というフィルターを通すと多くの学びや気づきがあり、ビジネスやマネジメントがもっとオモシロクなる」がコンセプトの当企画。事業後継者育成を目的とした「ちば興銀『コスモス経営塾』」を卒業し、実際に事業承継をされた方々にインタビューを行い、さまざまな分野で活躍される経営者の体験談や経営術を発信します。経営に興味のある方、事業承継を検討されている方に、ここでしか手に入らない生きた情報をお届けいたします。

今回のゲストは、1948年(昭和23年)創業、千葉県鎌ケ谷市で農機具の販売・メンテナンスを手掛ける文平産業株式会社(以下、株式会社省略)の4代目、佐藤直樹社長。大学卒業後に日本有数の小型農機具メーカーである株式会社共立(現:株式会社やまびこ)に入社し、文平産業とは取引先の関係でした。文平産業から声が掛かったことをキッカケに、2006年に同社に入社し、2015年に代表取締役の立場を引き継ぎました。

(前編)創業家から熱望された承継。白羽の矢は取引先のホープに立った。

千葉県は、野菜の産出額が全国3位、米・花・畜産も全国上位に位置する農業王国です。文平産業は、本社機能を兼ねる白井市と、八街市、いすみ市、木更津市、香取市の県内に5カ所、茨城県かすみがうら市に1カ所の、合計6カ所の営業所を構える農機具販売の老舗として、全国的にも高い業界知名度を誇っています。

農機具メーカーである株式会社共立が創業間もない頃、戦後の食糧増産に貢献したいという企業理念に共感し、同社製品の取り扱いを目的として佐藤文平夫妻が創業したのが文平産業の始まりです。株式会社共立が作った製品を文平産業が販売するという二人三脚で、順調に事業を拡大していきました。一方で、佐藤直樹社長は、株式会社共立の営業社員として、将来を期待される存在でした。

「自分が文平産業の社長になるなんて、お話をいただくまで夢にも思いませんでした。」

農機具メーカーの営業社員から創業70年を迎える老舗企業の経営者へと転身した佐藤社長。そこには、どのようなストーリーがあったのでしょうか。

メーカー営業として全国転勤。「文平産業って知ってる?」の一言が人生を変えた。

-事業承継のキッカケを教えてください。

事業承継のキッカケというか、僕は婿養子として、事業承継を見据える形で結婚しました。要はお見合いですね。

1996年に新卒採用で株式会社共立に入社し、メーカー営業職として島根営業所、山口営業所、東京本社、山形営業所と、全国を転々としていました。営業成績も上々で、そろそろ別部署へ転勤か、という時に上司から「文平産業って知ってる?」と声を掛けられました。

文平産業は共立製品の販売数全国1位の常連で、共立の創立周年パーティーで表彰されるなど、共立と深い関わりを持つ会社でした。「もちろん知ってますよ。」と答えると、「お前彼女いるの?」と…。後継ぎを探しているという話だったので、一度お見合いすることになったんです。山形営業所に在籍しながら、東京に帰ってきて、文平産業のご息女とお会いしました。

-お見合いすることに迷いはなかったのですか?

まぁ、断られると思っていましたからね。(笑)当時の僕は31、32歳で、娘さんは24、25歳の若さで、さらに銀行に勤めていて、まだまだこれからという時でした。正直に言うと、「若いのにお見合いさせられて可哀相に…。」という心境でした。

実際にお会いした第一印象は、率直に「とてもキレイで素敵な方だな。」と感じました。1回お会いして、断りの連絡が来るのだろうなぁと思っていたら、まさかの2回目のお話があって…。

すでに、彼女の覚悟は決まっていたんだと思います。2回目にお会いした時に、「結婚するつもりはありますか?」と真っ直ぐに聞かれました。

その時、自分よりも10歳近く年下の社長の娘さんが持つ決意を感じ、僕もきちんと応えなければと思いました。

妻の決意を受け止め、心が決まった。着々と進む結婚への道のり。

-結婚はすぐに決まったのですか?

はい、先代社長ご夫妻も前向きだったようで、とんとん拍子で進んでいきました。結婚後にどうして僕を選んだのかを妻に聞くと、「雰囲気」と言われました。(笑)あと、冗談かもしれませんが、先代が娘さんの身長が170センチあることを気にしていて、190センチ近い僕の身長もプラスに働いたみたいです。

まあ、創業時から付き合いのある会社の営業社員で、業界のことをよく知っている人間なので、安心感はあったと思います。あとで聞いた話ですが、先代は前職の関係者に僕のことを片っ端から聞いていたみたいです。「あいつ、悪い評判がないな…。」と悔しそうにしていたと聞きました。(笑)

僕自身も、同業での転職だったので、キャリアを諦めるという感覚はなかったですね。むしろ、メーカーの卸売り営業から小売り営業に転換するのは、キャリア形成の視点でも興味はありました。卸売りでできなかったことを業界知名度のある販売会社でチャレンジできるかもしれない、と。手塩にかけて育てていただいた前職の上司には、申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが…。でも、結婚式も出席してくれて、今もよい関係性が築けています。

僕の両親はなかなか結婚しない息子を心配していたので、手放しで喜んでくれました。次男だったこともあるのか、婿に入ることも、社長を継ぐことも反対されずに、「やっと結婚するのか!お嫁さん若くて綺麗だねえ。」という感じでした。

-祝福されたご結婚だったのですね。社長ご自身は、社長業に不安はなかったのでしょうか。

無かったと言えば嘘になりますが、当時は若かったですし先代社長もお元気だったので、「なんとかなるだろう」という気持ちの方が強かったですね。経営やマネジメントの勉強をしたことはありませんでしたが、業界のことはわかっていたので、社長業に必要な知識はこれから身に付けていこうと考えていました。

前職の退職・文平産業の入社とほぼ同時に始まったコスモス経営塾。経営知識は全てここで学んだ。

-経営の知識はコスモス経営塾で学ばれたのでしょうか。

ええ、私が経営の勉強をしたのは、コスモス経営塾のみです。2006年の3月に前職を退職し、4月に当社に入社して、5月からはコスモス経営塾がスタートしていました。なので、入社とほぼ同時に経営塾に通い始めました。

初めは右も左もわからない状態でしたが、結果としてとてもよい勉強になりました。経営コンサルタントなどの経営の専門家や、業種の異なる同じ境遇の経営者・経営者候補の方々の前でプレゼンをする機会は経営塾に入っていなかったら絶対になかったことだと思います。

社長は何かしら人前でしゃべる機会が多いですから、その練習にもなりますし、対等な立場で指摘をもらえるのは貴重な体験です。私は2期生だったのですが、当時の仲間とはゴルフのOB会などで未だに顔を合わせる機会があります。横のつながりは、私たちのように地場に根付いた事業を行っている企業にとってとても大切です。

千葉興業銀行さんならではと感じたのは、千葉ロッテマリーンズの新規事業を立案するという課題があって、実際にZOZOマリンスタジアムに行ったことです。チームでブレストをして企画を立てて、みんなの前で新規事業計画の発表をしました。結果、僕のチームが1番になってサイン入りユニフォームをもらいました。遊び心があってとても面白い企画だと思いました。

あとは、自社の状況を客観的に見られるというのも大きかったです。経営塾の課題の一つに、中期経営計画を立てるというのがあり、入社早々に会社の現状を把握できたのですが、思ったよりも大雑把な経営をしていることがわかりました。

前職の共立は上場企業だったこともあり、さまざまな管理が徹底されていました。僕はその会社の常識しか知りませんでしたが、文平産業も共立の製品の日本一の販売会社だったので、あまり変わらないだろうと思っていたんです。しかし、当時の会社は僕の想定を超える状況でした。

DIRECTOR:HIROKAZU SUZUKI(日本企画)
      YUU WAKABAYASHI(日本企画)
WRITER:CHIAKI NAKAMURA(株式会社KiU)
PHOTO:SO KASHIWAGI(FILMIC)